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映画レビュー:沈黙ーサイレンスー

 

スコセッシ監督の「沈黙」。すごく興味があったのだけど、予告映像が重かったから『迫害ヒドーイ』『日本て野蛮よねー』的な勧善懲悪映画なのかと敬遠していましたがAmazonプライムで見つけたので観てみることにしました。

 

沈黙 -サイレンス-(字幕版)

 殉教者ロドリゲスを軸に物語が展開されます。長崎奉行は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々― 守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは

 

 

 

遠藤周作さんの著作「沈黙」をマーティン・スコセッシ監督が実写化したという作品なんですね。 ハリウッドが描く「変な日本」が出てこないので、真実味を増していますが、遠藤周作さんが伝えたかったのは、「迫害ヒドーイ」でもなく「日本ヤバーイ」でもありませんでした。惨いシーンもえげつない奉行も、伝えたいたったひとつの事へ導くモチーフでしかありません。そちらに気を取られないように鑑賞したいものです。

 

 

 

 深い深いテーマ

守るべきは大いなる信念なのか?

人々を救済するために命がけで布教しているにもかかわらず、その屈強な信念のために人々が死んでいく。改宗すれば救えるという選択を迫られる殉教者。この葛藤は、本当に究極だと思います。 

平和や愛をなそうという信念は、いつしか自分のアイデンティティとなってしまう経験を私はしました。ロドリゲスと同じく、この信念が自分や周囲を苦しめることになるのです。 

ロドリゲスが踏絵を強制されるシーンで、既に改宗したフェレイラ神父が葛藤に苦しむ彼にかける言葉が、そんな私にとっても真実でした。

キリストがここにいたら、彼らを救うため改宗したはずだ

おまえの愛を見せろ!

主が愛する人々を救え!

教会の裁きよりもっと大切なことがある

今まで誰もしなかった最も辛い愛の行為をするのだ

  私はキリスト教に明るくありませんが、教義は教義として真実なのでしょう。しかし、教義に縛られ、目の前の人を救えないなら、そんな教義は空っぽと言わざるを得ません。

世界中の宗教戦争は、同じように教義に縛られ殺戮を繰り返し、終わりが見えません。スコセッシ監督は、人々を救うための宗教で殺し合う本末転倒に胸を痛めていたんだろうなと感じました。監督が全世界に発信したかったのは、この言葉に尽きるのではないかな。

「最も辛い」と形容されたのは、信念を手放すことでしょうか。アイデンティティと一体化してしまった信念を捨てることは、自分を捨ててしまうに等しいと感じ、まるで愛を捨ててしまえと言われたようで目の前が真っ暗になるのです。

でも違う。

信念はエゴであって愛ではないんですね。信念を手放すとすごくすごく楽になります。他者を救いながら自分をも救ってしまう。これは本当に不思議な仕掛けで、神の試練とはこういうものなんだろうなと思います。

この作品のテーマは、救済という美しげなラッピングに覆われた信念というエゴを捨てられるか?というところにあるんだと思います。本当の愛は、自立した人を育て、救済の必要のない社会にすることだと思ってます。こんなテーマ、1966年に書いていたなんてスゴすぎるー

じゃあ、どう生きればいいの?

ロドリゲスと対照的に演出されていたのは簡単に裏切りを繰り返すキチジロー。彼の信仰は弱いので踏み絵という土壇場にあっても、信念を貫き通そうとせず「生きたい」という魂の叫びを優先させポンと踏んでしまう(笑)。誰にどう思われようとも、命の恩人に軽蔑されようとも、世間の目や常識より心の叫びを優先させます。私には彼の軽やかさが真実のように思えます。

イラっとする観客もいるかもしれませんね(笑)。作中ではあきれ果てられる若者として描かれていますが、信念に縛られないキチジローはある意味で軽やかに生きています。裏切る度に罪悪感に苛まれますが、告解(吐き出す)と忘れてしまう(笑)。

告解ではなく認めることが大事

告解は、罪を話すことで許し浄化してもらおうという行為。告解が済んだら綺麗な自分になるという発想なんだと思いますが、もともとヒトは清濁あわせもったイキモノで、綺麗なままでいられる訳がないので、キチジローのように繰り返します。それがナチュラルなヒトというもの。

ヒトの自然な姿を『罪である』と定義したのはどこのどいつなんでしょう(笑)。そして私たちはそんな定義にいつまで乗っかっていくのでしょう。

「ほんとオイラは卑怯で弱くてさ。でも生きたいんだよ!」と、目を背けたくなる自分も、綺麗な自分もどっちも自分の側面だと認めて、次は愛の選択をしようと建設的に生きるのが大事なんじゃないかな。

太極図が示すように善も悪も全部で1セット。悪を表現する人が不完全なのではなく、悪を認めない概念・風潮が不完全なのだと私は思います。他者の悪を大勢でつつき殺してしまう社会ではなく、「あー、君も悪あるね、僕もあるよ、コントロールしていこうね」的な寛容な社会にしていかなければなりません。

作品ラストでロドリゲスはキチジローにこう言います。「一緒にいてくれてありがとう」。善を象徴するロドリゲスが、悪を象徴するキチジローにこの言葉を言うというのはまさしく「善も悪も全部で1セットなんだ」という概念を伝えたかった部分なのではないかな、と思いました。

信念もなく流されるように、といって心の叫びはきっちり優先させるキチジローは、その後も相変わらず奉行にしょっぴかれたりして生きたようですが、このいい加減さに学ぶことはとても多いんじゃないかと、現代日本が息苦しい私は思うのです。

依存させる宗教はNG

圧政という環境が人々を宗教に容易く依存させたようです。ならば多くの人々が愛に生きたのかといえば、人質を決める段になると、人々はいっせいに他者へ懇願しあげく争う。愛の教えなどとはほど遠く、単なる依存の手段として広まっていたのが伺えます。

殉教者ロドリゲスも依存の中にいました。踏み絵を前に葛藤するロドリゲスにジーザスが「踏みなさい」と語りかけてきます。そんな銅板を踏むことは愛の行為とはなんら関係のないことだと理解したシーンでしょうか。どんなに必死の問いにも沈黙を貫いたジーザスなので、この語りかけは自分自身との対話と受け取ってよさそうです。

答えを誰かに教えてもらいたいというのは依存。自分で答えを出そうと自立したときに、自分の内側から答えが降ってくるという不思議を、スコセッシ監督は伝えたかったのではないかな。本当に自分を救うのは「自分」しかいないんですよね。(救うとは肉体を存続させることではなく、心を平和に保つという意味です。)

 

下手な役者は皆無のキャスティング

日本人は演技が下手とか、感情移入できないほど棒読みとか、日本映画には発展途上のトピックが沢山ありますが、この作品にはそんな中傷は不要でした。演技できない顔だけの動員要員もおらず安心して物語に没入できます。

ひときわ目を引いたのがモキチ役の塚本晋也さん。海で磔のシーンもさることながら、小さなシーンでも彼の演技は光ってました。上手かったねぇ・・・ホント。不勉強で名前を存じ上げなかったので鑑賞後に調べてしまうほどでした。ワタシ的に助演男優賞です。

リーアム・ニーソンさんは、安定の迫力演技。ファンなのでどうしても贔屓目になってしまいますが、ちっさい囁き声ですら真実味があるのはやっぱりスゴイと思います。

アンドリュー・ガーフィールドさん。あの弱々しいスパイダーマンを演じた彼とはちょっと思い出せないくらい立派になられて・・・(もはや親心w)。地に足が着いたような印象。ヒゲあるほうがいいかもね。

イッセー尾形さんの怪演にも目が釘付けに。彼にはこんな個性があったのですね~!史実映画って、「権力の権化になって自分の狂気に気付けない哀れな太った役人」って役回りがよくあるのだけど、イッセー尾形さんの役どころはそれにちょっと似てます。違うのは筋の通ったことを言うってこと。必ずしも狂人ではないのね?っていう好奇心を煽り、注目度を増していたように思います。そういう意味ではちょっと役不足感。もうちょっとセリフ多くてもよかった!もうちょっと観たかった!

浅野忠信さん。当初は渡辺謙さんがキャスティングされていたらしいですがスケジュール都合で降板なさったそう。浅野忠信さんも同じくハリウッド常連になりましたね。謙さんだと重厚感が出過ぎちゃうからよかったと思います。英語はますます堪能になってるようにお見受けしました。

窪塚洋介さんは上述のとおり、ちょっと小ずるい軽やか担当(笑)。ほっそい足や華奢な上背が役とマッチしていました。若い世代はこんな風に、重苦しい概念をぴょんぴょんと超えていくよっていうロールモデルのような役どころがピッタリでした。